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しかたのない蜜

しかたのない蜜

先生、一緒に給食食べましょうよォ」
 お下げ頭の学級委員が、愛らしく私に小首をかしげた。
「そうですよ。今日も僕たちと給食食べてくれないんですか? 寂しいなあ」
「俺、先生と一緒に給食たべたーい」
「私も!」
「僕も!」
 私は教壇の上に置かれた金属製の食器を前に、生徒たちに一斉にそうねだられていた。
 ちょうど頭のてっぺんにある太陽がさんさんとした陽光を、教室に白っぽく投げかける。
 中学三年生というまだまだあどけない生徒たちに囲まれた私は、さぞや生徒に慕われている教師に見えることだろう。
 子供っぽく大声を張り上げるブレザー姿の彼らの顔をぼんやりと見ながら、私はそう思った。
 その時、いきなり教室のドアがノックされた。
 生徒たちが一瞬静まりかえる。
「どうぞ」
 私がそう言って、扉を開けると中から初老の女教師が顔を出した。隣のC組を担任している中島だった。
「佐々木先生、今日の職員会議は校長の都合で、四時から五時に変更だそうです」
「はい、わかりました」
 私は内心ため息をつきながら、顔には笑顔を浮かべてそう答えた。これでまた帰りが遅くなる。今日は少年Aが来る日だっていうのに。
「それじゃあ」
 そう言って、中島は背を向けて去っていこうとした。生徒たちが面白そうに私たちのやりとりを聞いているのが気配で感じられた。
 それから中島は急に振り向いた。
「佐々木先生」
「はい?」
 あのことに気付かれたのかと、私はほっとするような、ひやひやするような気持ちで答える。
「先生って本当に生徒たちから慕われているのですね。みんなに一緒に給食を食べてくれだなんてあれだけせがまれて。まったくうらやましいですわ。先生のクラスはみんな仲が良くて、いじめなんてないでしょう?」
「はあ……」
 私はあいまいに笑った。私が赴任している学校では、教師にも生徒と同じ給食が支給されることになっている。それは教室で教師に配膳されるが、そのまま職員室に持っていって食べてもいいし、教室で生徒と一緒に食べてもいい。
 だが、現実は職員室で食べる教師が圧倒的に多かった。もちろん昼休みくらい受け持ちの子供たちと離れていたいという気持ちもある。
 しかし実際のところは、生徒が教師といっしょに食事を取るのをけむたがる雰囲気が如実に教師に伝わってくるからだった。
 中島もそんな教師の一人だった。彼女が「昔の生徒たちは私にもっとなついていてくれたのにねえ。私ももうおばあちゃんなのかしら」と寂しそうにぼやいていたのを私は何度か聞いていた。
 でも、私はそんな中島がうらやましい。けむたがられるということはまだ人間扱いされているということなのだから。
「それじゃあ、生徒たちといっしょに給食食べてあげてくださいね。みんな喜びますから」
 中島はそう言い残して、自分の教室に行ってしまった。
 重い足取りで私は教壇に戻る。生徒のクスクス笑いが聞こえた。
 私は勇気を出して、スプーンを手にとって、今日の献立のメニューのひとつであるホワイトシチューをすくってみた。
 乳白色のシチューには、ごまのような黒いものがいくつも浮いていた。消しゴムのカスだった。また生徒に入れられたのだ。
「ねえ淳子ちゃん、食べてみてよ。私たちの特製シチュー」
 学級委員長がそう言うと、生徒たちは一斉に拍手した。
 本当に、うちのクラスの生徒はみんな仲がいい。
 みんな仲良く、担任教師の私をいじめている。

「先生、今日なんかあったの?」
 少年Aはホワイトシチューを皿の中にそそぎながら尋ねた。中身が等分になるように何度もかきまぜられたそれは香ばしいミルクの香りをさせながら、百円ショップ製のスープ皿の中に盛られていく。
 おそらく市販のルーは使っていないのだろう。シチューは自然なミルクの色をしていた。
 もみじ型に切ったにんじんが可憐な彩りを添えている。
 私が担任していたころから、少年Aはこういう手の込んだことをする生徒だった。それは彼が十四歳から十八歳になった今でも同じだ。
 だから少年Aはいじめられたのだ。どうでもいいことに時間を費やして、周りをイライラさせるから。今の世の中、学校でも目立たない努力や気遣いなんていうものは、いじめっこを惹きつけるチャームポイントくらいにしかならない。
 いつもなら私は、大げさに「わあ、おいしそう!」くらい言って、いつも情けなさそうな笑顔を浮かべている少年Aにささやかな喜びくらい与えてやっただろう。
 だが今夜のシチューの香りはいやでも私に学校でのあのできごとを思い出させた。
 私はわざとそっけない口調で「べっつにぃ」と答えた。
 少年Aの縁なし眼鏡の奥の目が曇る。白いブラウスにつつまれた細い体がぎゅっと萎縮されるのが見て取れる。
 三年前も、少年Aはこうやって黙って級友達のからかいに耐えていたのだろう。
「冷めちゃうから、食べなよ」
 私は少年Aがかわいそうになって、そう勧めた。自分もスプーンを手にとってシチューを口に運ぶ。あたたかいシチューは本当にほっこりしていておいしかった。
 今日、結局昼食は持参したおにぎり一個とバナナですませたので、腹が減っていた。
 私のほぐれた顔を見て、少年Aも安心したのだろう。スプーンを手にとって、シチューを食べ始めた。今日の献立は他に、少年Aが「先生、野菜不足だから」とこの台所で作ったシーザーサラダと、フランスパン、そしてデザートのケーキだった。これらはすべて少年Aが持ってきたものだ。
 少年Aは、私に大学受験のための勉強を個人的に教わる報酬として、私の家にこうして夕飯を持ってくる。
「ところであっちは今のところどうなの?」
「あっちって?」
「バイト。あんた、スーパーでバイトしてるんでしょ?」
「ああ……」
 少年Aは曖昧にうなずいて、ふうふういいながらシチューを口に運んだ。眼鏡のレンズが白く湯気で曇る。
「まあまあ」
 うつむいたまま、少年Aが答えた。
「まあまあって? 具体的にどんな感じよ。親切にしてくれる人とかいる? 友達できた?可愛い女の子とかいないのォ?」
 ”可愛い女の子”と口に出した時、私の口調はどこか卑屈になっていた。二十九歳、未婚の女が、自分にはもう戻っては来ないつるつるした肌の持ち主を上目遣いで見ている声だ。
 そしてそんな”可愛い女の子”が、本来この少年Aのそばにはいるべきなのだ。
 私は少年Aがとてもおとなしそうで神経質そうだけれど、よい見栄えをしていることを知っている。眼鏡を取った彼の顔が、とても整っていて綺麗なことを知っている。その細い腕がどんなふうに優しく女を抱くかも知っている。
 きっと少年Aがその気になって微笑めば、後をついてくる女はたくさんいるだろう。
 けれど、私はそれに気付かないふりをして、少年Aをうつむいてばかりいるガキのままにしているのだ。
 小さくちぎって口に入れたフランスパンを咀嚼してから、少年Aはゆっくり言葉を選ぶようにして答えた。
「親切にはしてもらってるよ、店長に。このフランスパンと野菜も格安で売ってもらえた。本当はこのレタス、しなびかけてるからタダでいいって言われたんだけど、好意に甘えちゃいけないからちゃんとお金払った」
「それくらいタダでもらっちゃいなさいよ」
「そんなこと、できない」
 少年Aは眼鏡の奥の目をつり上げて、私を抗議するようににらみつけた。こんな潔癖さも少年Aのいじめられっ子になったポイントのひとつだったのだろう。
 私は話題を変えることにした。
「まあ、良かったじゃない。以前のバイトみたいに、いろいろもめてないんだし」
 少年Aの表情が曇った。その前のバイト先のコンビニで、少年Aはバイトの先輩の内引きを店長に告発して、ぼこぼこになるまでその相手に殴られた挙げ句、結局は自分がバイトをやめる羽目になったのだった。その先輩バイト店員は、店長の妻とデキていて、少年Aを冤罪にかけたのだ。
 その後、少年Aはふたたびひきこもりに逆戻りしそうになり、私は少年Aの母親に呼ばれて何度も少年Aの家に行った。そうして心と体で少年Aを励ました結果、少年Aは晴れてバイトができる状態になったのであった。
 私は明るい話題を懸命に頭の中で探した。
「バイトもいいけど、そろそろ受験勉強に専念したら? 来年、受験でしょ? そういえばこの前の模試の成績どうだったの。見せてよ」
 食事中だというのに、少年Aはすぐさま私の言葉に反応して、リュックの中から、模試の成績表を取りだした。T大医学部、判定A。文句なしの結果に私は息をのんだ。
 もう中学教師の私になんか教えられることは何ひとつないだろう。
 少年Aは私の心を読んだように、急いだ口調で言った。
「僕、現代国語でよくわからない問題があったんだ。先生、あとで教えてよ」
 現代国語は私の担当教科だ。古文も担当しているが、現代国語の方が私は教えるのが得意だった。少女の頃、私の夢は小説家になることだった。小説家になったら大好きな宝石をたくさん買おうと夢想していたものだ。私は図書館で小説以外にも、宝石の写真集をたくさん借りていたのである。その夢の残滓がこの教科には残っているのだ。それを知っていて、少年Aは私にこの教科を教わることを請うている。
 私の顔に、少年Aの不器用な気遣いに対する笑みがこぼれた。
「先生、ようやく笑ったね」
 安堵した声で、少年Aが言った。切れ長の目が優しく私をつつみこんでいる。
「そんなに私、怖い表情してた?」
 模試のプリントをテーブルの上に置き、最後の一口となったフランスパンをほおばりながら私は言った。
「怖い表情っていうか……」
 少年Aはそこで言葉を切った。私をうかがうように、上目遣いをする。私はイライラして尋ねた。
「じゃあ、何なのよ?」
「……言っていい?」
「そんなふうに訊くんだったら、最初から何も言わない方がマシ」
「先生、怒ってる?」
「あんたが言わなきゃもっと怒る」
「じゃあ、言うけど……」
 少年Aは大きく息をついて言った。
「怖いっていうより、こわばった表情。学校に通ってたころ、僕、よくそんな表情してた。先生も知ってるでしょ?」
 少年Aの答えに、私は自分の頬の筋肉が固まっていくのを感じた。
「……ごめん」
 私は小さく言った。もう五年もたったというのに、私は少年Aに負い目を感じている。
「べつにいいよ。そんなつもりで言ったんじゃないから。気にしないで、本当に」
 少年Aは土下座しそうな勢いで、私にそう謝ってきた。
 謝るのはあんたじゃなくて、あんたをいじめっこたちから守ってやれなかった担任の私なのに。
 私は泣きそうになる。そんな私の表情を見て、少年Aの切れ長の目から涙があふれた。
「ごめんなさい、先生」
 眼鏡をはずして、涙をぬぐいながら少年Aは言った。本当に綺麗な、ガラス細工みたいな顔をしている、と私は思った。
「いいよ、謝らなくて」
 私はそう言いながら、少年Aを抱きしめた。細い肩が私の腕の中でしなる。まだ男になりきれていない、まさしく少年の体だった。
 少年Aの体は熱を帯びてきた。私と同じものを期待しているために発せられる熱だ。
 私はその熱を少年Aとともにしずめあうことにした。
「謝るんだったら、先生をなぐさめてよ、少年A」
 少年Aは私の指示に従って、私の体をカーペットの上に押し倒した。

 私が少年Aとこういう関係になったのは、少年Aが中学卒業を控えたある冬のことだった。
 一流進学高校に合格したクラス一の優等生が登校しない。このままでは、出席日数も危ぶまれる。
 それは中学教師になってまだキャリアの浅かった私にとって、ふってわいた災難だった。
”まさかいじめによる不登校ってやつじゃないでしょうね? そこはやはり先生がきちんとご指導なさらないと”
 教頭に遠回しにイヤミを言われ、私は少年Aの自宅に向かった。その当時は、私は少年Aをちゃんと本名で手塚くんと呼んでいた。
 手塚くんの母親は、以前家庭訪問で対面した時とはうってかわったやつれた様子だった。丁寧にセットされていた髪は後ろでひっつめられ、身に付けているブランド婦人服もその顔色の悪さのせいでどことなくくすんで見える。
 私の顔を見ると母親はわっと泣き出し、「先生、私どうしたらいいか」と言った。
私がなにごとかと思っていると、二階から規則正しい足音がした。しばらくすると鈴のついたこのリビングルームのドアが開いて、手塚くんが現れた。
「先生、こんにちは。わざわざご足労かけてしまってすみません」
 手塚くんはそう言って、ぺこりと頭を下げた。私は小さく感動した。手塚くんと話していると、私はいつもこうしたささやかな感動を味わう。
 その当時、私の受け持っている生徒で「ご足労」などという言葉を使う生徒は手塚くんしかいなかった。ロクに敬語も使えず、それを自分のものおじしない美点と思いこんでいる生徒が多い。そんな中、手塚くんの言葉使いは清流のさわやかさを私に与えていた。
 私はその時、自分が初めて手塚くんの私服姿を見ていることに気づいた。ジーンズにトレーナーというありふれた格好だが、生地の上等さからしてかなり高価な品だろう。今、私が身につけているタイトスカートが十着は買えそうだった。手塚くんの家からすれば安い買い物なのだろうが。
 なぜなら手塚くんの父親は、祖父の代から経営している病院の院長なのだった。つまり手塚くんの家は、名実ともにこの町一帯の名家というわけだ。
 この大きくて広い家にもいたるところに富の匂いは充満している。床に敷かれている絨毯の凝ったデザインとやわらかさ。普通の広さの家には絶対置けないグランドピアノ。それでも広々としている居間。天井にぶらさがるベネチアンガラス製のシャンデリア。
 縁なしの眼鏡がよく似合う白くて華奢な手塚くんはこの家の息子にふさわしい真面目な品があった。たしか手塚くんは長男だったから、あの病院の跡継ぎになるのだろう。手塚くんならいい医者になるだろうな、と私は思った。
 そこまで考えてから、私は手塚くんの細い右手首に白い包帯が巻かれていることに気づいた。そしてその反対側の左手首には赤いプティングのような傷跡がある。よく見ると手塚くんのシャツの袖口には、朱色のしみがついていた。
「秀一、あなたまたそんなことして!」
 手塚くんのお母さんは悲鳴のような声を上げた。髪をふり乱して手塚くんに走り寄り、肩を何度もゆさぶる。手塚くんは遠い目をして人形のように、お母さんのされるがままになっていた。
「やめてください、お母さん!」
 私は修羅場な母子に駆け寄り二人を引き離した。私に制止されるとお母さんはあっさりと手塚くんから手を離した。そのまま崩れ落ちるように床に腰をおろす。顔に手を当てて泣くお母さんに私はどうしていいか分からずに辺りを見回した。
 すると手塚くんがいないのに気づいた。私が血相を変えて探しまわるまでもなく、手塚くんは湯気の立つカップをトレイに載せて現れた。
「母さん。母さんの好きなハーブティだよ。これを飲んで落ち着いて」
 手塚くんはつっぷして泣いているお母さんの前にソーサーごとカップを置いた。
「先生どうかお座りになってください。先生もハーブティ、いかがですか? 気持ちが落ち着くっていいますよ。僕の父さんはこんなもの飲んでも気休め程度だって言うけど」
 手塚くんはテーブルの上に私の分のカップを置いてから言った。手塚くんは笑っていた。この子は本当に真面目でおとなしいんだな、と思わせるようなひっそりした笑顔だった。手塚くんは私が授業中にへたな冗談を言うと、いつもこうやって笑っていた。休み時間中に友達にふざけて、プロレス技をかけられている時も。
 その時、私はあることに思い当たった。
「ねえ、手塚くん。手塚くんのお部屋、先生に見せてくれないかしら」
 こうして私が訪れた手塚くんの部屋は、大きな本棚とプラモデルがあるごく平均的な中学生男子の部屋だった。平均よりはるかにきれいに片づいてはいたが。
 ただひとつ決定的に異常なのは消毒薬の匂いがたちこめていることだった。部屋の左端にある勉強机の上には、金属のプレートに入れられたカミソリが銀色の光を放っていた。消毒薬の香りはここから発生している。
 手塚くんと私はカーペットの上に腰掛けていた。私がいくら手塚くんに学習机の前の椅子に座れと勧めても、手塚くんは「先生に悪いから」と聞き入れなかった。
「これ……何してるの?」
 私は震えを隠せない声で訊ねた。
「消毒してるんです」
「何を?」
「カミソリです」
 他の生徒なら「先生、見ればわかるじゃん」と鼻で笑いそうなことを手塚くんはまじめに答えてくれた。それが私にはかえって恐怖をそそる。手塚くんがすでに狂っている証拠のような気がするのだ。私は精一杯何げないそぶりで振り返って、部屋の出口までどれくらいあるかをたしかめた。
「先生、僕の頭がおかしいと思ってるんでしょう?」
 手塚くんに図星をつかれて、私は思わずカーペットの上に失禁しそうになった。
「べ、べ、べつにそんなこと……」
「無理しなくていいですよ。僕だって自分が変だと思ってるんですから」
 手塚くんはそう言って、悲しいけれど安心した目で、机の上のカミソリを見た。その目は私の心に突き刺さった。
 私はこんな表情をした手塚くんを今まで見たことがなかった。私の知っている手塚くんは控えめな笑顔を浮かべた扱いやすい生徒にしか過ぎなかった。きっとこれが手塚くんの本当の顔なんだ、と私は思った。すると恐怖がだんだん薄れてきた。
 私は手塚くんの素顔がもっと見たくなった。
「ねえ、どうしてこんなことするの?」
 単刀直入な私の問いかけに、手塚くんは驚いたように私を見た。
「ごめん。先生、いきなり変なこと聞いちゃったかな」
 私が話題を変えようとした時、それまで首をひねって、ずっと何かを考え込んでいた手塚くんが口をゆっくりと口を開いた。暗号の解読をしているみたいな口ぶりだった。
「清潔なカミソリなら、こんな僕でも綺麗に死ねるような気がするから」
 私は「ハアッ?」と言いそうになるのをあわててこらえた。手塚くんはぎゅっと膝を抱え込んでいる。
 いわゆる体育座りというこの窮屈な座り方を私もよくする。一生懸命テストでがんばったのにいい点が取れなくて親に「そんなことでは教師の私たちの娘として恥ずかしい」と言われた時。大学入学してこっちに出てきた時、「言葉になまりがあるよね」と新入生歓迎コンパでからかわれた後、一人安下宿に戻ってきた時。そんな時こうやって座ると安心するのだ。少しだけでも残酷な外界から自分の領域を守れるような気がする。
 私は微笑みながら、手塚くんと同じ座り方をした。私が姿勢を変えたのに気づいた手塚くんはうつむけていた顔を上げて、私を見た。私はなんとなく楽しい気分になって、手塚くんの膝を自分の膝でちょんとつついた。手塚くんのこわばっていた顔は赤くなった。
「な、何するんですか」
「ちょっとよろめいて」
「先生、どっか気分悪いんですか」
「冗談よ」
 私が笑うと、手塚くんは頬をふくらませた。私の二歳年下の弟もからかうとよくこんなふうにむくれていたっけ。今は一人暮らしして、大学でできた彼女とアパートと半同棲しているそうだ。正月に帰省したらこっそり私だけに教えてくれた。あいつは私と違って昔から要領のいい子だから、親の言うとおりに教師になんか絶対ならないだろう。
 そういう人間は得だ。それに強い。他人の目を気にせず、自分の好きなように生きていける。そして今の世の中は、そんな人間に都合のいいようにできている。私は学校で常に学級委員やら何やらの雑務を押しつけられていた。その上、真面目でつまらない人間とよくからかわれていた。
 そういえば。私は教室で友達とプロレスごっこをしていた手塚くんがかけられていた技の名前を思い出した。「マジメボンバー」だった。
「手塚くん。あなたもしかして何かにものすごく悩んでいたりしない?」
 私の言葉に、手塚くんはビクッと身をすくめた。よりいっそう強く膝を抱える。本当に手塚くんは正直な生徒だ。
 私は手塚くんの横顔をのぞきこむようにしながら言った。
「先生も今すごく悩んでる。だって手塚くんが学校に来ないと、先生の授業ちゃんと聞いてくれる人いないんだもん」
 手塚くんは困ったように私を見た。私はウィンクしながら言った。
「先生寂しいから、手塚くんのおうちにこれからも来ていい? 先生にここで授業させてよ、ねっ?」
 私は自分で自分の言葉に驚いていた。「寂しい」などという言葉が自分の口からここで出てくるとは予想外だった。さらに私は遠回しに手塚くんの不登校を認めているのだ。
 手塚くんも私の申し出にあっけに取られたようだった。私の意志をたしかめるようにじっと私を見つめる。私は手塚くんを見つめ返した。考えてみれば、こうして人と見つめ合ったことなど何年ぶりだろう。私は学校では職務に追われ、家に帰ると下宿で疲れて寝ているばかりだったのだ。
「いいです、けど……」
 手塚くんは耳まで赤くなってしぼりだすように言った。
「やったァ」
 私はそう言って手塚くんの頬をちょん、とつついた。手塚くんは赤くなって横目で私をにらんだ。その子供っぽい様子に私が思わず吹き出すと、手塚くんもつられて笑った。消毒薬の匂いは、いつしか部屋から薄れていった気がした。

 それから私は手塚くんが中学卒業するまでの二ヶ月間、手塚家に頻繁に家庭訪問しした。週に二度は必ず行っていたと思う。周りの教師たちからは「佐々木先生は本当に教育熱心ですなあ」と言われた。たしかに私は手塚くんに学校に来て欲しかった。だがそれ以上に、手塚くんと彼の部屋でふたりっきりで話すのも楽しみになってきていた。
 三度ほど訪問した時にはもう私は手塚くんに学校に来いとは言っていなかった。どうせ卒業まで二ヶ月だし、それまで無遅刻無欠席だった手塚くんは余裕で卒業できる。公立中学校とはそういうところなのである。私は手塚くんに卒業式だけは参加するようにと言っておいた。
 手塚くんが学校に来なくなった理由ははっきりとはわからなかった。私は手塚くんがいじめを受けたのではないかと考えた。 
 私は比較的私になついてくれている生徒の幾人かに、休み時間の間にさりげなく手塚くんの交友関係について訊ねてみた。誰かとケンカなどしていなかったか。また、いじめられているのを見たものはいないか。 
 だが生徒たちの答えは一様に同じだった。手塚くんとは仲良くないからよくわからない、というのである。
「手塚ってさァ、マジメでギャグとか言わねえから話しててもつまんねえんだよ」
「そうそう、成績優秀なだけでおもしろみのないやつって感じ。親の言うこともハイハイって聞いてそう」
 二人の男子生徒はそう言って顔を見合わせて笑った。私は古いかさぶたをはがされた気がした。それは学生時代、私がさんざん友人たちから言われたセリフだったのだ。
「真面目なのがどこが悪いのよ。手塚くん、いい子じゃない」
 私は無意識のうちに強い口調になってそう言っていた。生徒たちは「淳ちゃん、怖いィ」と肩をすくめて走って逃げた。私はすっかり生徒にナメられている。もし手塚くんへのいじめを発見できても、いじめっこたちを注意することはできないかもしれない。私は今も昔も、ひ弱な優等生でしかないのだ。
 こうして私は手塚くんに負い目と同時に親近感を抱くようになった。彼も私も同じ。今時流行らないまじめなだけのつまらない人間なのだ。
 私は学校で手塚くんを守れなかった引け目を埋めるように、手塚に通い続けた。
「不登校児なんて、いちいち相手にしてちゃ身が持ちませんよ。向こうが体調不良だから学校に来られないって言ってるんだから、教師のあなたがわざわざ介入することじゃないじゃありませんか」 
 頭をてからせたベテラン教師は声をひそめてそうアドバイスしてくれた。だが彼は考え違いをしている。私は義務感だけで手塚家に通っているのではない。私は職場である学校から帰宅すると、テレビを見ながら寝るだけの人間なのだ。
 私に必死に何かを語ろうとしてくれている人間は手塚くんしかいなかった。
「先生、聖書って読んだことある?」
 二月の半ばにさしかかったある日、手塚くんは私にそう訊ねてきた。手塚くんも私もあいかわらず体育座りをして、カーペットに並んで腰をおろしている。
 けれど手塚くんは、私に以前よりは敬語を使わなくなり、以前より頻繁に私の目を見て話すようになった。そして私はなぜか手塚くんが私にそうしたくだけた態度で接してくれるのが嬉しかった。
「昔、親から買ってもらった児童文学全集のダイジェスト版でなら読んだかな……手塚くん、キリスト教信者になりたいの?」
「……なってもいいと思ってた。神様でも信じたら、ちょっとは僕も生きていきやすくなるかな、と思って」
 手塚くんは膝の間に顔をうずめるようにして笑った。悲しくて仕方がないのをこらえているような笑い方だった。その悲しみをどうして私に話してくれないの。それがくやしくてたまらない私は、手塚くんのおでこをこずいた。
「痛ッ」
 手塚くんが子供っぽく顔をしかめたのにほっとしながら私は腰に手を当てて言う。
「手塚くんはまだ若いんだから、そんな老成したようなこと言うんじゃありません」
 手塚くんは「あいてて」と額を押さえながら私を軽くにらんだ。私も手塚くんと同じような目つきで手塚くんをにらみ返す。やがて私たちはにらめっこをした後の幼稚園児みたいに笑い合った。
 私はこんなふうに他人と笑い合うのにずっとあこがれていた。私はいつも友達から「真面目な佐々木さん」として一線引かれていた。誰も私をあだ名どころか、名前ですら呼んでくれることはなかった。 
 それが今、十一歳も年下の男の子にその願いをかなえてもらっている。私はそのせめてものお礼に手塚くんをなぐさめることにした。
「そのうち手塚くんも毎日楽しく過ごせるようになるって。高校に上がったら友達もたくさんできるようになるだろうし。大人になるといろんなものが見えてきて、生きるのが楽になるわよ」
「そうですか?」
「うん」
 私は不安げな手塚くんに力強くうなずいた。そんなの嘘だ、と心は言っている。私はもう二十六歳になるけれど、ちっとも楽になんか生きていない。あいかわらず人間関係は苦手で、教師になったのを後悔するのもしょっちゅうだ。しかも教師になったのは親の希望をかなえるためだったといい年をして人のせいにしている。そのくせ、押し通すほどの自分の夢もない。何にも見えてない、からっぽの大人。
 それを手塚くんに見破られたくなくて、私は話題を変えた。
「聖書のどういうところが印象に残った?」
「二人の弟子と金貨の話」
 手塚くんは立ち上がって、聖書を手に取ってから語り始めた。手塚くんは立ち上がって、聖書を手に取ってから語り始めた。聖書にはふせんがいくつも貼られていた。
 それはこういう物語だった。ある日、イエスが山に金貨を隠す。そしてそれを二人の弟子希望者に取って来るように命じる。一人の男はただ金貨を見つけ出して持ってくる。もう一人の男は発見した金貨を磨いて持ってくる。イエスは後者の男だけを弟子として採用する。なぜなら言われたことだけをただやる人間は弟子として必要ないからだとイエスは言うのだった。
「先生はこの話、どう思います?」
「う~ん……つまり、真面目に言われたことだけをこなしてるだけじゃ駄目ってことかしら」
 首をひねりながら言う私に手塚くんはため息をつきながらうなずいた。
「たしかにそうかもしれませんね。他人に言われた通りにやる人間じゃ駄目なんだ。真面目なだけじゃ駄目なんだって、イエスは言いたかったのかもしれません」
「そう言えば、最近そういうことよくテレビで言われてるわよね。自分で考えて工夫しない人間じゃなきゃ、勝ち組にはなれないとか。この金貨をただ持ってきた人にはそのひと工夫が足りなかったのかもしれないわね。ただ従順なだけで」
「……でも僕、この人がこういう性格になったのはそれなりに理由があったと思うんです」
 手塚くんの聖書を見つめる目は、今机の上にある消毒された剃刀と同じ色になっていた。はりつめていて鋭くて、それでいてどこか脆い色。
 私は息を詰めて手塚くんを見守る。
「この時代は一部の権力者が民衆を支配していたんでしょう? イエスの弟子志望になる人なんて、きっとみんな貧しくて奴隷同然の身分の人が多かったはずだ。そんな人間が自分の意見を持って生きていたらどういうことになります? 相手の気に入らないことを少しでも言ったら殴られて、痛めつけられるんだ。そんな人間が、いきなり自分の頭で考えろって言われても無理に決まってますよ」
 私はその時、初めて手塚くんが声を荒げて話すのを聞いた。けれども手塚くんの声は少しも威圧的ではなかった。泣き出す直前の子供のような声だった。私は手塚くんを抱きしめたくなった。
 でも教師として、一人の生徒にそこまでするのはためらわれた。その間にも手塚くんはいらいらと部屋中を歩き回り、言葉を続ける。
「この人はそんな自分を変えたくて、イエスの弟子になりたかったんだ。自分を受け止めてくれて、導いてくれる人が欲しかったんだ。それなのに、真面目なだけじゃ駄目なんて……言われたことをただやるだけじゃ駄目なんて……」
 手塚くんの言葉はすっかり涙ににじんでしまい、最後の方は聞こえなかった。手塚くんは机の上にあったカミソリを素早く手に取っていた。
 手塚くんは机の上にあったカミソリを素早く手に取っていた。もうすっかり私の目になじんでいたカミソリは蝶に似た輝きを放って手塚くんの手首に降りようとした。その手首にはまだ真新しい包帯が巻かれていた。
「やめなさい!」
 私はとっさに叫んで、手塚くんの手からカミソリを払い落としていた。カミソリは乾いた音を立てて、床に落ちた。手塚くんの体はバランスを失って、私のからだにもたれかかった。私は手塚くんに押し倒される格好になり、床に崩れ落ちる。
 私はその衝撃に悲鳴を上げるのも忘れていた。私のタイトスカートからのびた脚に手塚くんのズボンにつつまれた太股が当たった。その感触のたくましさに私は手塚くんはちゃんと男なんだ、と当たり前のことに感動していたのだ。
 手塚くんは上から私を見据えていた。眼鏡は倒れた時に取れてしまったのだろう。手塚くんはあらわになった大きな目から涙を流していた。それは私の口の中にもぐりこむ。手塚くんの涙はしょっぱくてあたたかかった。
「先生……」
 手塚くんはしぼりだすような声でそう言うと、目をきつく閉じて私にくちづけてきた。それは接吻というより、歯と歯のぶつかり合いだった。
 私は手塚くんのぎこちない口づけを受けながら必死にもがいた。私の抵抗に手塚くんは我に返ったように飛び退いた。
 私は乱れたスカートの裾を直すのも忘れて、素早く立ち上がる。
「先生、待って……」
 床に座りこんだままの手塚くんが悲鳴のような声で止めるのを振り切って、私はカバンを抱えて消毒薬の匂いのする部屋を出る。
「先生、もうお帰りになられるんですか?」
 玄関先で手塚くんのお母さんに呼び止められたが、あいさつするのもそこそこに私は手塚家を飛び出した。
 その晩、半狂乱の手塚くんのお母さんから電話がかかってきた。
 手塚くんが手首を切って病院に運ばれたという電話だった。



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